平泉の浄土思想
奥州藤原氏、初代藤原清衡の父は、前九年の役の最後の戦い、現盛岡市厨川柵の戦いで敗れて処刑された藤原経清である。
藤原経清は官軍であったが安倍一族、安倍頼良 貞任に味方し、官軍源頼義、義家と戦った。
前九年の役、後三年の役を通じ多くの戦死者を出し地獄を味わった。
清衡はこの戦死者の霊を慰め、且つ平和を願う心から中尊寺を再興し平泉の建設に着手した。
この理想の世界が極楽浄土世界の建設であった。
清衡は豊富な産金、漆、馬を活用し、中央文化だけではなく、中国文化も取り入れ、平泉文化の礎を築いた。
2代基衡は毛越寺、観自在王院の建立に着手し、3代秀衡は基衡の遺志を継いで毛越寺を完成し、さらに無量光院を建立した。
仏教思想の平和浄土のために建設されたのが平泉文化である。
当時、平清盛は源氏討伐のために秀衡に軍を率いて上洛するように勧誘したが秀衡は平和主義者のためにこれに応じなかった。
しかし平和主義者秀衡も息子の泰衡の代に、国家統一主義者、源頼朝の大軍勢の前に敗れることになった。
ここに100年続いた栄華の奥州藤原氏は滅亡した。
時代は貴族の時代から武士の時代に大きく変化していった。
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